hitorigusa’s blog

漢字で書くと『一人草』好きなことを書く。書き流す。

【随時更新】新型コロナウイルス社会的考察

ナウシカ金曜ロードショーでやるらしいので新型コロナについて社会的に考察してみようと思います。僕ウイルス学者じゃないので。

 

でこれは思ったことを書き連ねるので随時更新していく形になります。気が向いたら書く。また書く。みたいな感じ。だから中盤あたりから内容が似たり寄ったりになるかもしれませんがご了承ください。初っ端の文から既にバカさ加減が溢れ出ていますがお許しください。

 

メディアのあり方としてのコロナウイルス

面白いもので移動もできない、なるべく人と合わないようにと言われると人間ストレスになるらしい。で、このストレスの主な原因は移動の制限(緊急事態宣言)のせいではないかと考える。つまり「緊急事態宣言」という言葉そのものが強力なものであるが故、社会が変わっていったのは言うまでもないだろう。

 

今年に入ってからテレビ、SNS関係なく毎日隙間なく新型コロナウイルスの情報が大量に世に放たれる。それが正しいか正しくないかは別の話である。というのも専門家、自称専門家、タレント、一般人がさも専門家の如く語っているがこれが正しいという保証はどこにもない。(今僕が正しいことを言っているという保証もどこにも存在しない。むしろ間違っている可能性のほうが高い。)

 

いや、あることはある。しかし、根拠のある正しい情報はいつしかメディアという曲がった価値観のフィルターを通って曖昧な根拠、もしくは分かりにくい根拠になって世に出てくる。その典型としてニュースではPCR検査数、陽性率を明確に報道せず「今日は新たな新型コロナウイルス患者が500人出ました。」などと言って不安を煽るような言葉だけを強調し報道する。見てる側の教養を馬鹿にして印象操作しているようにも思えるこの報道の仕方はメディアの意識が低くなっているからなのではないかと思える。(昔は知らないけど🙇‍♂️)テレビ、新聞という20世紀の呪縛から逃れられない我々はまだ情報誘導され続けなければならないのだろうか。(メモ:仮に今からGoToキャンペーンを一時的に辞めた場合、飲食店、観光産業にどれだけ打撃が来るか試算を出したデータは存在するのか)

 

国を変えるという意味で言うのならばマスクはいらないと馬鹿騒ぎするのではなく、駅前や国会前で小さなデモを起こすでもなく、テレビ局の前、もしくはYouTubeで報道のあり方と忖度のない報道の要求、NHKスクランブル化を訴える集会でもやった方が日本は良くなるのではないかと思ってしまう。メディアが変わり情報の質が高まれば我々は今までより容易に質の高い情報を入手できる。政治参画のハードルも下がってくるのではないだろうか。(メモ:正しいメディア、質の高い情報とは)

つまり報道のあり方を見直さ無ければならない。このことを今まで以上に実感できている。コロナウイルスでそれが顕著に出ているのだ。右か左だけでは語らない。20世紀に取り残されたメディアのボス(新聞、テレビ)を前に我々はSNS(個人の発信力)で対抗することができるのか。

 

緊急事態宣言

緊急事態宣言は行動だけではなく単語としての力が非常に強いものだった。法的な拘束力はなくとも字ずらだけでただ事ではないことは分かるし実際ただ事ではなかった。教育は一時的に止まり、観光地は閑散とし、ビルから人が消え、まちは静かになった。否応なく突きつけられる現実は受け止めるしかなく大学に入学したばかりの私は毎日のようにパソコンとにらめっこしていた。

世の中が変わる瞬間みたいなものを感じた。これからはコロナ以前、コロナ後と言われるようになる。僕から東日本大震災前、震災後という軸が残り続けるように。社会にも「緊急事態宣言」で一つの大きな出来事として残り続け前と後で考えてしまう。無印良品で使っていそうだった「新しい生活様式」という言葉は今や当たり前の言葉であり、今の生活の基準の言葉になった。

 

(4、5日経過)

そう、勝ち負けで物事を計るのは好きではないけど僕らは何に負けたんだろうと考えることがあった。Covid-19か、国か、同調圧か。なんとも明確な答えはないし答えを出そうとも思わない。しかし大きな意味での謎の敗北感はある。個人という小さなものでの敗北感ではなく、集団や社会としての大きな枠組みとしてである。