hitorigusa’s blog

漢字で書くと『一人草』好きなことを書く。書き流す。

【随時更新】新型コロナウイルス社会的考察

ナウシカ金曜ロードショーでやるらしいので新型コロナについて社会的に考察してみようと思います。僕ウイルス学者じゃないので。

 

でこれは思ったことを書き連ねるので随時更新していく形になります。気が向いたら書く。また書く。みたいな感じ。だから中盤あたりから内容が似たり寄ったりになるかもしれませんがご了承ください。初っ端の文から既にバカさ加減が溢れ出ていますがお許しください。

 

メディアのあり方としてのコロナウイルス

面白いもので移動もできない、なるべく人と合わないようにと言われると人間ストレスになるらしい。で、このストレスの主な原因は移動の制限(緊急事態宣言)のせいではないかと考える。つまり「緊急事態宣言」という言葉そのものが強力なものであるが故、社会が変わっていったのは言うまでもないだろう。

 

今年に入ってからテレビ、SNS関係なく毎日隙間なく新型コロナウイルスの情報が大量に世に放たれる。それが正しいか正しくないかは別の話である。というのも専門家、自称専門家、タレント、一般人がさも専門家の如く語っているがこれが正しいという保証はどこにもない。(今僕が正しいことを言っているという保証もどこにも存在しない。むしろ間違っている可能性のほうが高い。)

 

いや、あることはある。しかし、根拠のある正しい情報はいつしかメディアという曲がった価値観のフィルターを通って曖昧な根拠、もしくは分かりにくい根拠になって世に出てくる。その典型としてニュースではPCR検査数、陽性率を明確に報道せず「今日は新たな新型コロナウイルス患者が500人出ました。」などと言って不安を煽るような言葉だけを強調し報道する。見てる側の教養を馬鹿にして印象操作しているようにも思えるこの報道の仕方はメディアの意識が低くなっているからなのではないかと思える。(昔は知らないけど🙇‍♂️)テレビ、新聞という20世紀の呪縛から逃れられない我々はまだ情報誘導され続けなければならないのだろうか。(メモ:仮に今からGoToキャンペーンを一時的に辞めた場合、飲食店、観光産業にどれだけ打撃が来るか試算を出したデータは存在するのか)

 

国を変えるという意味で言うのならばマスクはいらないと馬鹿騒ぎするのではなく、駅前や国会前で小さなデモを起こすでもなく、テレビ局の前、もしくはYouTubeで報道のあり方と忖度のない報道の要求、NHKスクランブル化を訴える集会でもやった方が日本は良くなるのではないかと思ってしまう。メディアが変わり情報の質が高まれば我々は今までより容易に質の高い情報を入手できる。政治参画のハードルも下がってくるのではないだろうか。(メモ:正しいメディア、質の高い情報とは)

つまり報道のあり方を見直さ無ければならない。このことを今まで以上に実感できている。コロナウイルスでそれが顕著に出ているのだ。右か左だけでは語らない。20世紀に取り残されたメディアのボス(新聞、テレビ)を前に我々はSNS(個人の発信力)で対抗することができるのか。

 

緊急事態宣言

緊急事態宣言は行動だけではなく単語としての力が非常に強いものだった。法的な拘束力はなくとも字ずらだけでただ事ではないことは分かるし実際ただ事ではなかった。教育は一時的に止まり、観光地は閑散とし、ビルから人が消え、まちは静かになった。否応なく突きつけられる現実は受け止めるしかなく大学に入学したばかりの私は毎日のようにパソコンとにらめっこしていた。

世の中が変わる瞬間みたいなものを感じた。これからはコロナ以前、コロナ後と言われるようになる。僕から東日本大震災前、震災後という軸が残り続けるように。社会にも「緊急事態宣言」で一つの大きな出来事として残り続け前と後で考えてしまう。無印良品で使っていそうだった「新しい生活様式」という言葉は今や当たり前の言葉であり、今の生活の基準の言葉になった。

 

(4、5日経過)

そう、勝ち負けで物事を計るのは好きではないけど僕らは何に負けたんだろうと考えることがあった。Covid-19か、国か、同調圧か。なんとも明確な答えはないし答えを出そうとも思わない。しかし大きな意味での謎の敗北感はある。個人という小さなものでの敗北感ではなく、集団や社会としての大きな枠組みとしてである。

 

 

 

 

 

雑記、映画は面白けりゃいい

アメリカ人は日本映画の本質(日常)を知らないように僕ら日本人もアメリカ映画の本質(日常)を知らない。どんなスペクタブル映画でもそこにある家族との会話とかに日常が潜んでる。だから面白いと思う。アメリカに住んでる人はどんな話し方でどんな家庭でどう学校生活を送っているのか僕らは本当のことを知らない。もちろんその家庭によって違うけど国の空気感はあると思う。ぼくはわからないからアメリカ映画は演技臭く感じないしアメリカの空気感を楽しんでいるという側面もあるのかもしれない。でも映画って本来娯楽であって作り手が伝えたいメッセージを観客がそのまま完璧に受け取れなくていいし取らなくていいはず。(監督とかの意図を推測したり映画の裏話とかは大好き)むしろ感じることの方がいい。映画を見終わったときいい映画だったなぁと思えることが1番いい状態だと思う。ボクは最近理屈っぽくなってきて感じることを忘れてる気がする。そう思うと映画はやっぱいい。理屈が先行する時が多いけど結局面白かった、面白くなかったが1番重要だと思うから。いい映画、面白かったと思える映画は理屈よりも心が先に動く感じがする。ダークナイトでジョーカーがパトカーから身を乗り出しているシーンがあるけどあのシーンの謎の高揚感というか開放感は「考えるな感じろ」というメッセージように思った。(これって考えてね?)完璧にシーンを覚える必要もなく、単純に感動すること、面白いことが重要ではないかと思う。

 

 

 

 

 

地域社会についてのレポート

 こんにちは。今回はほんとにこのまま出してみようと思う一人草です。地域社論という授業のレポートです。

 

 

レポートの課題   

「自分が最もよく知っている(あるいは、関心のある)地域を取り上げ、以下のキーワードを5つ以上使って、地域社会を説明しなさい」

 

南相馬市は6月1日時点で「人口53,276人」(南相馬市ホームページ)の県北にある市である。私は震災後、山形県酒田市に転校したが高校生に上がるのと同時に地元であるこのまちに戻ってきた。南相馬市東日本大震災の影響で大きな被害を受けた。原発事故により立ち入ることのできない場所もあったが現在は住民が住めるようになった。しかし、課題があることも事実である。今回は野馬追、復興の視点から論じる。今後も復興、発展をしていく中でどのようなことが重要かを考えていく。

まず、野馬追である。千年以上の歴史がある国の重要無形民俗文化財に指定されている伝統ある祭りである。例年7月最後の土、日、月の3日間に行われる。1日目は主に神社で神事が行われ2日目は街中を騎馬武者たちが行列になって歩く。その後甲冑競馬、神旗争奪戦が行われる。3日目の最終日は野馬懸と呼ばれる行事で締めくくられる。例年、約20万人近い観光客が来るが今年は新型コロナウイルスの影響で規模の縮小、無観客で行った。野馬追は地域的アイデンティティの中心である。この日が近くなるとまちには旗が飾られ道路規制の看板が立つ。電車には野馬追のラッピングが施され観光客が少しずつやって来る。当日になれば朝から花火が上がり野馬追の開始を伝える。地元の人は野馬追を誇りに思っているし夏の訪れを感じるものである。第11回の授業での「祭りとは見えない都市の姿/形を浮かび上がらせる装置」というのが一番しっくりくる。しかし、近年大きな課題が出てきた。それは騎馬の減少である。福島民報には「震災二年後の二〇一三年から四百騎台を確保していたが、昨年は三百九十五騎にとどまった。最盛期には六百数十騎を数えていた。騎馬武者の高齢化に加え、年間三十万~六十万円前後の馬の飼育費用をはじめ経済的負担が大きいことが影響しているとみられる。今年は一人当たり十数万円の出場奨励金も支給されないため、来年以降の参加を諦める人が出てくる可能性がある。南相馬市は出場者の飼育費用の一部を補助しようと、七月中にもクラウドファンディングを始め、資金を調達する方針だ。今後も例年出場している人や参加を考えている人から要望を聞き、きめ細かな支援に努め、減少に歯止めをかけてもらいたい。」

https://www.minpo.jp/news/moredetail/2020070476835 閲覧日20200804)

とあり主な原因は飼育費、高齢化にあると論じた。またこの記事にあるクラウドファンディングについて調べた。現在の達成率は41%であった。野馬追に関わっている方々の思いが綴ってあったが少子高齢化、奨励金が出ず馬主の負担が増加、さらに新型コロナウイルスで経済負担が増えるといったことも書いてあった。

私は野馬追には変革が必要だと考える。このままでも文化の維持自体はできるであろう。しかし、年々規模は縮小していくことになる。そのため主観的地域 (地域への愛着、アイデンティティとして考えた場合、地元住民の地域への愛着が薄れていく可能性がある。高齢化が進む中で地元愛が薄れることは人口の流出、減少にもつながるため市としてもよくない。規模が縮小すれば観光客が減っていくことが予測されるため地元の観光産業も徐々に痛手となる。行政としても騎馬の縮小は大きなダメージとなる。観光資源が野馬追に依存しがちになっているため財政の面からしてもよくない。大きく考えれば野馬追が縮小することは南相馬市が衰退することに繋がるのだ。同じく騎馬の減少は野馬追の規模縮小である。これからは祭りを残すためにも発展が必要である。変革と書いたが単純に「外からの視点」と「内からの視点」を考える必要があるということだ。一度行政や実行委員会ではないところにアイデアを求めるのだ。「内からの視点」だけで解決しようとすると考えが固定化してしまう。若い人を集めるヒントもここにある。伝統行事だからこそ新しい考えを恐れず入れてみる時期である。騎馬数減少の原因を踏まえ新しいことを取り入れることが必要である。

次に復興である。今年福島ロボットテストフィールドが全面オープンした。福島イノベーションコースト構想に基づき作られた施設で様々なロボットを試験、開発ができる。この施設を中心に浜通りの産業回復、交流人口の拡大、人材育成に取り組むとある。つまりロボット産業が復興の中枢となるわけである。ここでの課題は地元住民がこのことをあまり知らないことである。私の在籍していた小高産業技術高等学校では福島イノベーションコースト構想に参加していた為どんなことを行うか大体の生徒が理解していた。しかし、家族や知り合いと話すとよくわかっておらず、ロボットテストフィールド自体もどのようなことをするかあまり知られていないようだった。南相馬市は世界に先駆けた最先端の研究をしているのだ。現に多くの企業が工場を建設したり研究開発をしたりしている。自治体ももっとアピールするべきである。これほどアピールできることがあるのに地元住民は気づいていないのだ。地域の価値の認識、再発見とまで至っていない。これからでも間に合うはずだ。この地域には新たな産業、価値が生まれることを。

かつて野馬追を中心にしてきた地域が震災を経て新たな産業の創出をするようになってきた。これからグローバル化が進み様々なものが流動化していく中で産業を作り出せるのは強みである。さらに1000年以上続く祭りはこの地域アイデンティティであり「歴史の地層」として重要なものである。野馬追を後世に残すことは故郷を残すことである。これらの課題を理解した上で未来をどうするか書いてきた。現状に甘んじることなく常に最適解はなにかえを考えることが必要である。

 

補足(感想、今の考え、反省点など)

 下線が引いてある単語は指定されたキーワードです。数十個あるものから選んで当てはめています。今回は超手抜きです。すみません。

 

 

では。

「忖度とは優しさなのか」というレポート

こんにちは。昨日大学のオリエンテーションが思いの外早く終わったので「ブックスマート」という映画を見てきたんです。鑑賞直後は普通に面白いくらいの感覚でしたが改めて思い出すとめちゃくちゃ面白い映画でした。

 

 

さて、今回は言葉にすると難しい授業のレポートをここに残します。哲学の基礎の基礎や物事の考え方の授業という感じのものです。授業に関する内容で論じろということだったので忖度について書きました。ということでよろしくお願いしまーす。

 

忖度とは優しさなのか

私は、忖度が生んだ「和菓子屋」を行った授業が印象に残っている。議論の中で出た意見は非常に参考になった。自分自身が今まで忖度について深く考えたことがなかったこともあるだろう。よく考えると世の中忖度が多くあるように感じる。新型コロナウイルスによるWHOと中国との関係など大きなニュースになり、ドラマや時代劇ではよく悪役が自分の利益のため忖度をしている。また、忖度とは言わないまでも気を利かす、思いを汲むといった同じニュアンスだが優しい言葉も存在する。そこで忖度とは優しさなのか、私たちが優しさだと思っている行為は忖度なのかについて問いていく。

忖度が生んだ「和菓子屋」は道徳の教科書の中身についての内容だった。私は中学時代から道徳の授業について不満な点があった。それは内容が押しつけがましい点である。いいことをすると気持ちいいと無条件で決めつけることが腑に落ちなかった。大まかな正解を出されてそこに向かうように答えていた私は教科書や周りの人に忖度していたのだ。そんなとき北野武『新しい道徳「いいことをすると気持ちいい」のはなぜか』幻冬舎2015に出会った。この本の1章5節『元気なおじいさん』にはこのような内容が記載されていた。北野1)元気なおじいさんが小学校に遊びに来た。おじいさんが来たため生徒たちは自分たちの席を譲る。その後もおじいさんを気遣いふかふかの布団まで用意する。最終的には一週間もいないうちに元気だったおじいさんは寝たきりになってしまう。このような内容だ。果たしてこれは優しさだろうか。この話をもとに考えれば道徳とは究極的には忖度になる。忖度とは権力などの顔色を窺うだけではなく優しさからも生まれてしまうのだ。善い行いは純粋な善に変わりないが相手の本心を考えないのは優しさではない。本当の優しさとは思いやりである。もしこの生徒たちが思いやりを持っておじいさんの意見を聞いたうえで物事を進めれば寝たきりにはならないはずだ。保身に走り自身を正当化しようとすることが忖度ならば老人だからこれが必要だろうと考えることはある意味保身であり小さな忖度である。しかし、これらは拡大解釈とも言える。つまりそれだけ忖度という言葉は曖昧な表現として使われている。忖度とは本来、相手の気持ちを推し量るという意味である。思いやりと対をなすほどの意味の乖離はないはずだ。この場合、忖度がダメなら思いやりもほんとに良いものか議論しなければならない。これは今まで森友学園問題などの影響力の大きな社会問題で間違った使われ方をしてきたためだと推測する。

忖度は優しくないという考えもある。西村博之は著書でこのように書いている。2)「本音で言う。そして、ちゃんと謝る」この一言は忖度の否定と取れる文である。しかし、不思議なことにどこか思いやりと優しさを感じる。ここには謝るという言葉が書いてある。つまり本音を言った結果間違う可能性があるということだ。忖度とは保身と自己の正当化に一生懸命で謝罪したくない、嫌われたくないないと思ったから行った行為である。それを隠す言葉として忖度が使われてきた。これは卑怯なやり口である。先人が言葉をずる賢く使ってきたものだ。私自身気遣いや忖度を受けたり行ったりするが本来はこのようにあるべきではないだろうか。

忖度という言葉が存在する以上このような議論は尽きない。どうしても自分を守りたいと思い忖度することもあるだろう。私自身もこれからそうしてしまうかもしれない。現代的な解釈からすれば忖度を優しさととらえるべきではない。拡大解釈されてきたこの言葉の意味を再確認し適切に使えるようにすれば気遣いや思いやりと同じように使われてもよいはずだ。そして私たちが優しさだと思い忖度する行為は相手のためにならない。本当の優しさとは本音で語ることにある。包み隠さず自分の意見を言うことが相手のためになるのだ。

 

文末脚注

 

補足(感想、今の考え、反省点など)

今回はずるい結論にしてしまって。途中の「忖度」は先人が不適切な使い方をしてきたから現代では優しさではないねという結論にしてしまいました。決して道徳教育を否定しているわけではありません。

あと、ひろゆきのやり方は今の僕にはできませんww

もうちょっと感想とか書こうと思いましたが今日はここまでにします。今後こちらを更新したり別記事にしたりしようかなぁと思います。

 

では。

 


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人間についての学問のレポート

 半沢直樹が面白すぎて日曜日が待ち遠しい一人草です。ギャグドラマだと思いながら見るととてつもない完成度です。個人的にはマンガ「グラップラー刃牙範馬刃牙、バキ道」といったバキシリーズを読んでるときと同じ感覚ですね。謎のワクワクを感じます。

 

さて、今回は人間についてのレポートです。 

 

「人間はこれまでどのように問題にされてきたか」2000字以内で述べよ。

 

いつの時代であっても人間は答えの見つからない真実に向かって問を投げ続けてきたことがわかる。宗教的な神もプラトンの説いたイデアの世界も本当の意味で見たり、体感したり人間はいないのである。しかし、これらの問題は人間という存在があるからこそ議論されている。私は「人間はこれまでどのように問題にされてきたか」に対して2つの大きなポイントがあると考えた。この問いに対して通年的に考察していく。

 まず1つ目のポイントはアウグスティヌス古代ギリシャ・ローマの文化とキリスト教を融合させたという場面である。アウグスティヌスが存命のときに起こった大きな問題は392年のローマ帝国におけるキリスト教の国教化である。大きなポイントである理由は約1500年以上たった時代にもこの思想の面影が残っているからである。資料にあるカント『論理講義』(1800)には「第一の問いに答えるには形而上学であり、第二の問いには道徳、第三の問いには宗教、そして第四の問いには人間学。」と書かれてある。アウグスティヌスとカントの時代の間にはヒューマニズムや科学の発達があったものの宗教が人間を考える上で切っても切れない関係になったのは確実である。哲学的な思想と宗教的思想は違うと考える。哲学は「私」が存在するうえで物事を考えることである。例えば資料にあるソクラテスの「善とは、美とは、人間にとって「最も大切なもの」は何か問う」という内容の言葉がある。人間が真理を追究すること、人間の在り方を考えることは人間らしい行為だということになる。宗教は「崇拝する対象」が存在するうえで物事を考える。どうしても人間は受け身になってしまう。資料の4.理性と信仰(1)には「中世カトリックの人間の理想的な生き方は、現世的な人間にではなく、「神の国」に生きる人間のうちにある。」とある。まるで人間を物語の一部のようにとらえようとしている。古代ギリシア時代は人間というものを表面的にとらえるのではなく国や社会の一部としていったい何が正しいのかを考えてきた。これは人間が最も知性を働かせる行為かもしれない。しかし、人間の考え方は人それぞれであり派閥のようなものが起きやすかったのではないか。そこでアウグスティヌスは中世カトリックではキリスト教を思想の頂点とすることにより信仰内容を理解しようとすることが重要だと説いた。このようにすれば社会は安定した考えを持つだろう。これは日本でも仏教で国を治めようとした時代もあったため非常に効果的なものであろう。前8世紀に都市国家ができて以来の人間に思考の統一性を持たせたことは大きなターニングポイントである。また、「哲学と宗教」「理性と信仰」を説いたアウグスティヌスは人間の思想を豊かにした人物であろう。

 2つ目はダーウィンの進化論である。資料には18世紀は徹底した合理主義、理性主義の時代とある。また、「宗教が道徳化され、個人の信仰、良心の自由が主張される。」「自然科学が学問の模範とされる。」とある。これは科学に対する意識が芽生えてきたというようにも捉えられる。同時に人間が法や制度により今まで以上にしっかりとした社会基盤を手に入れたとも理性の発達の面では大きいだろう。これは日本でも同じで17世紀から19世紀に中盤までの江戸時代のような長きにわたる安定した時代は人間が作っていくものというのを決定づけているのではないか。特に資料にある19世紀後半から20世紀初頭の「進化と社会ダーウィニズム」は社会という言葉を使い人間を問題にしている。また、「倫理」「道徳」という言葉も使い説明している。自然界の中でも社会的に高度に発達したものが人間だとなる。人間が自然界の一部ということが前提にあることはコミュニティの形成こそが社会として発達する第一歩となる。特に道徳、倫理観は宗教が大きな柱であると考える。世界的に考えても宗教を全く持たない人は少なく、特定の宗教を崇拝する国も少なくない。こうすべきという教えを守ることにより道徳や倫理が生まれたのではないだろうか。そして、人間が自然の一部であることを自覚させたこの考えは社会形成と合理的考えの形成をより飛躍させたものある。

 2つのテーマをポイントにして考えてきた。人間は新たな価値観、考えが生まれたときに問題にされてきた。そのたびに思考的、社会的な部分がアップデートされてきたのである。人間とは社会の中で成長する生き物であるということを意識付けられるものだった。

 

補足(感想、今の考え、反省点など)

未だにね。ギリギリにならないとできない性格が抜けなく困っています。あとこの時は用事があっていて提出期間は大丈夫でしたが、その予定時間ににどう間に合わせるかを考えてました。

時間がなくて今回は感染症という観点も入れようのしましたが字数的に難しかったので書きませんでした。大学から渡された資料には感染症などの記載はありませんでしたが(主に哲学、宗教、教育などがあった)どう問題にされてきたかという面で感染症は人類に大きな影響を与えた出来事でもあります。(万有引力を発見したニュートンはペストで大学が休校期間中に発見した。)

またここで気づいたことは哲学と宗教は根本的に違うということです。実際にレポートにも書きましたが、人間を中心に問題にしてきたか神を中心に問題にしてきたかということに気づき新鮮な感じがしました。というのもここまで深く考えたことがなかったので。

2つ目にダーウィンの進化論と書きましたが大雑把に言うと合理主義という土台が形成された上で生物としての人間が問題にされているよね。そう言えば道徳や倫理の形成には宗教って便利な教材だよね。ってことが言いたいだけでした。

ちなみにメモ書きはこんな感じです。ここ書いたことはほとんど書いていませんでしたが笑

f:id:hitorigusa:20200908174241j:image

 

今回はこんな感じです。哲学とか宗教は思想として面白いなぁと思えました。もうちょっと調べようと思います。

 

 

では。

 

 


カネコアヤノ - 愛のままを

 

 

 

現代社会についてのレポート②

こんにちは。恐らく先週から夏休みの一人草です。今までは課題があるけどゲームしよとか、午後から授業あるとかの何かしら後ろめたいことや予定がありましたがそれが無くなったので逆に辛いです。緊張感まるでなし。油断するとこの暑さで心の中から溶けてなくなりそうです。怖いです。

 

ということでレポート第二弾です。提出課題は今回までの2つになります。ですが面白そうなテーマがあったのでそのうち字数制限とか関係なく書いてみようかなと思います。

 

 

「現実に児童虐待地球温暖化、所得の格差、地方の衰退などの問題はあるけれども、私の生活に直接かかわるものではないので、あまり考えないようにしようと思います。考えても無駄だし、政治家とか、だれか偉い人に任せておくのが良いと思います。私には、何もできないわけだから。」この意見について、自分の考えを400字以上600字以内でまとめなさい。

 私はこの意見は間違っていると考える。なぜなら政治家や偉い人が簡単に世の中を変えたことはなく、実際問題として世界全体が良い方向に進んでいると明言できないからだ。                                      ここにある大きな問題は一人では解決できないのは明確である。私たちに世界が変わっていく様を想像することは容易ではない。しかし、これらの問題は最終的に自分や自分の子供世代が不利益を被ることになる。児童虐待が増えれば少子化加速するかもしれないし、温暖化が進めばレジ袋の有料化などにより生活コストが上がり、様々な縛りが増え、生きづらくなる。所得の格差が大きくなれば生活に困った人が罪を犯す可能性がある。結果として治安が悪くなっていくことが想像できる。地方が衰退すれば公共サービスが行き届かなくなり住みづらくなる。その結果、便利な都市へ移住し少子高齢化と相まってますます衰退していく。

 社会があまり良くなっていない現状と未来を想像すると政治家や権力者は今なにをやっているのかと感じる。私たちがこれらの社会問題について真剣に考えなければ上の人たちは何も変わらないのだ。私たちが問題の本質的な部分を知ることで政治家などの決定権のある人たちへの意思表示になるのではないだろうか。

 

 

補足(感想、今の考え、反省点など)

頑張って民主主義だから~みたいなことを書こうとも思いましたが質問している人がわかりやすいようになるべく直近で起こりそうな未来のことを書こうしたらこうなりました。やっぱ不確定で分かりにくいですよね。というか僕自身そう感じています。あと「何もできないわけだから」には答えられてなかったですね。

政治家や偉い人は僕たちの利益になることを考えてくれているかというと疑問です。政治家の汚職問題は週刊誌とテレビの利益になりますが僕らにはなんの利益にもなりません。政治家より偉い人より善良なお金持ちのほうが世界を救えると思います。ただ誰か偉い人に任せることを否定することはできません。選挙の否定ひいては民主主義の否定になるので。

確かにこんなことをひとりで考えても意味がないのは事実です。ここで何かを発信しても世の中は絶対変わらないです。でも何か意思表示をしなければ物事が変わる引き金は生まれません。

 

ということで・・ね。レポートって大変ですね。

 

 

では。

 

 


Sweet Memories

 

 

 

 

現代社会についてのレポート①

こんにちは。英語はGoogle翻訳、DEEPL翻訳、WEBLIOの三段活用で完璧になれると知った一人草です。神より現代科学を信じます。

 

さて、このブログを更新するのも久々なのです。みなさんわたしの前回のブログ覚えていますでしょうか。

hitorigusa.hatenablog.com

すみませんでした!!!!!!ほんとにすみません!!!

6月てね。ほんとに載せる気あるのかと言われそうですがあります。ただ必死になってまでやろうとは思いません(笑)あくまでマイペースでブログはやろうと思っています。というか今回から自分の中でブログの投稿内容に関してのハードルをぐっと下げました。なのでこれまで以上に期待しないでください。

 

初回の今回は現代社会に関してのレポートです。レポートは原文そのままではなく多少表現を変えています。ご了承ください。

 

テーマ「大人と民主主義政治について」 

 コロナ渦の中で「大人としての自分」というのは考えざるを得ない問題だと強く感じた。それは民主主義国家としての日本が世界と比較してどの程度の政治力があり、リーダーシップが取れているかが顕著に見えたからである。日本はほかの国々より政治力が劣っているというのが正直な意見である。しかし、今の政治家を選んだのは私であり、日本国民である。そう考えると大人としての自分がいかに考えるかが重要である。

「大人としての自分」にとって必要なものはなにかと考えると「論理的思考」ではないかと考える。今までのように何となく投票すれば国は良くならない。このままでは資料にあった「衆愚政治」に陥ってしまう。私は最近メディアで選挙演説などを聞くときは話の内容が論理的か、具体的な内容かを一番意識している。抽象的な内容や感情的な表現聞こえはいいが内容が薄い。そのため候補者が当選後に何を実行したいのかが伝わって来ない。だからこそ私は今まで以上に論理的に考えなければならないのである。政治をよりよくするには私たちがよく考えて物事を決めることが必要なのである。

これからは政治にもっと関心を持たなければならないと感じている。これは大人としてでもあるし、大きく言えば日本が良い国でありたいと思うからだ。コロナ渦の中で今私たちは「賢明な国民」なのか試されているのではないだろうか。

 

衆愚政治・・・その場のノリで物事や権力者が決まる無責任な政治

 

補足(感想、今の考え、反省点など)

400字以上600字以内という短い文の中で伝えるって難しいですね。内容については言いたいことは言えたかなぁと思います。ただ、僕が書いた前期のレポートの大半は根拠となる柱が弱いというか薄いんです。そこは事前の調べが甘かったりしていますね。反省している点です。後期は根拠を明確にすることを意識しなければならないと反省しています。

 

こんな感じです。よろしくお願いしまーす。

 

では。

 

 

 


EVISBEATS feat. CHIYORI - Again